翻訳家による翻訳できない言葉の話

日本語と英語の狭間で呻吟し、言葉を超えたものに思いを馳せる翻訳家のエッセイ

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Mindを日本語に翻訳できますか?

 10年以上前だったと思いますが、NHKで興味深い番組を観ました。日本人哲学者が、外国人の哲学者らしき人物と、「コンピュータに心はあるか」というテーマで討論していたのです。外国人は英語で話し、日本人哲学者は日本語で話しており、あいだに通訳が入っていました。

 外国人は、コンピュータは人間が考えるときと同じように振る舞うのだから、Mindを持っていると言って差し支えないはずだというような主張をしていました。それに対して日本人哲学者は、考えることができるからといって心があるとは言えないと反論していました。

 通訳者は外国人が口にしたMindという英単語を「心」と翻訳し、日本人哲学者が言った「心」をMindと翻訳していました。

 Mindを『ランダムハウス英和大辞典第2版』で引いてみると、「(思考、認識、判断などの働きをする)精神・心」が最初に載っています。2番目の定義は「(感情・意志に対して)知、知性」となっています。

「心」という言葉を聞いたとき、日本人はなにを思い浮かべるでしょうか。 「コンピュータに心はあるか?」というテーマを耳にしたとき、日本人が思い浮かべる「心」は「知」よりも「感情」に近いのではないでしょうか。「あの人には心がない」と言った場合、その意味は「あの人には考える力がない」ではないはずです。

 一方で、英語のネイティヴ・スピーカーがDo computers have minds? という文章を目にしたときにmindという単語から連想するのは「思考するなにものか」ではないかと思います。

 Mindという言葉は、心理学や哲学、宗教、あるいは精神世界と言われる分野でも頻繁に使われます。そういう分野の翻訳書を読んでいると、「これはMindを誤訳してるんじゃないか」と思われる訳文に出くわすことがよくあります。また、「『精神』と書いてあるけど、これは原書ではどういう英単語が使われているんだろう。ちょっと意味がずれてるような気がするけど」と気になったりもします。

 それでも文脈によってはMindを「心」と翻訳するとぴったり来るから厄介です。たとえばbody and mindというフレーズを翻訳するとすれば、「心と体」になるでしょう。つまり、文脈によって訳語は変わってくるのです。

「精神」という日本語も英語になりにくい言葉です。学生時代に英単語を暗記した人は、「精神」という日本語をどういう英単語に置き換えていましたか?
 Weblioで「精神」の英訳を調べてみたら、spiritという英単語が一番に載っていました。そしてつぎがmindなのですが、ご丁寧にもmindのあとに括弧をつけて(心)と書いてあります。

 SPACE ALCの『英辞郎』でも「精神」を調べてみました。みなさんもどうぞ。
http://www.alc.co.jp/
 まず上のほうにずらりと表示される英単語にざっと目を通してから、下の例文を読んでみてください。精神と物質をspirit and matter と訳している例文と、mind and matterと訳している例文の2種類ありますよね? また、mind and bodyというフレーズに「精神と肉体」という訳語を充てています。

 どの訳語もまちがいではありません。文脈や翻訳する人によって訳語は変わるものなのです。

 単語に定訳がないという問題だけでなく、そもそも日本語は理詰めで話をするのに向いていない言語だと感じます。英語は主語をはっきりさせ、代名詞を頻用します。けれど日本語は主語や代名詞を省いたほうが自然です。論理的な話をするときに主語や代名詞を省くと、意味が曖昧になってしまいますが、だからといっていちいち主語や代名詞を入れると、とてもまわりくどくてわかりにくい日本語になります。

 例を挙げましょう。下の英文はジョーゼフ・キャンベルとビル・モイヤーズのThe Power of Mythから引用しました。

I mustn’t allow this society to dictate to me how I should live. One has to build up one’s own system that may violate the expectations of the society.

 学校の英語の授業でなら、こんなふうに和訳するかもしれません。
「私は、私がどのように生きるべきかということを、この社会が私に指図することを許すべきではない。人は、社会の期待を侵すかもしれないその人自身のシステムを築きあげなければならない」

 とてもわかりにくい日本語ですが、このような翻訳のまま出版されている本はたくさんあります。

 プロの翻訳者であれば、つぎのように翻訳するかもしれません。
「自分の生き方を社会に決めさせるわけにはいかない。たとえ社会の期待を裏切る結果になっても、独自のシステムを築きあげる必要がある」

 ノンフィクションは翻訳のプロではなく、その分野の専門知識を持っている人が翻訳する場合が多いので、英語の授業のような英文和訳になっていることがよくあります。原書が英語で書かれているノンフィクションの翻訳書を読んでいて、もしとてもわかりにくいと感じたら、それはあなたの読解力が悪いせいではないかもしれません。思い切って原書を読んでみると、すらすら理解できてびっくりするかもしれませんよ。

 英語を日本語に翻訳することは、英語を英語のまま理解するよりもはるかにむずかしいのです。

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プロフィール

May

Author:May
翻訳家。フリーランスになって24年。出版翻訳専門。京都府在住。

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