翻訳家による翻訳できない言葉の話

日本語と英語の狭間で呻吟し、言葉を超えたものに思いを馳せる翻訳家のエッセイ

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翻訳できない挨拶

 日本人は職場で同僚に向かって「こんにちは」と言わないそうですね、と外国人に訊かれました。考えてみたこともありませんでしたが、言われてみればそのとおりです。

 英語圏でなら、社内で同僚と顔を合わせたとき、Hiと挨拶すると思います。でも日本語では同僚に向かって「こんにちは」とは言いませんよね。出勤した直後なら、「おはようございます」と言うでしょうが、それをのぞけば、相手が上司なら黙礼するだけでなにも言わないでしょうし、親しい同僚だったら挨拶抜きで会話が始まるのではないでしょうか。

 業界にもよるかもしれませんが、客商売なら、夕方出勤しても「おはようございます」と言うのが普通だと思います。3交代勤務の職場では、どういう挨拶を交わすのでしょう? 工場などでも出勤時は、時刻にかかわらずやはり「おはようございます」でしょうか?

 挨拶は翻訳できないものが多いように思います。「よろしくお願いします」も、なにをお願いしているのかがはっきりしていなかったら、翻訳することは不可能です。

 冒頭の質問をした外国人が、「先日はご馳走様でした」という挨拶が一番わけがわからないと言って笑っていました。

 この「先日はご馳走様でした」という挨拶を、わたしは英語に翻訳しなければならない羽目に陥ったことがあります。ある企業で役員の秘書兼文書の翻訳の仕事をしていたときのことです。

 アメリカ出張から帰ってきた役員の一人が、お礼状を翻訳してほしいと、わたしに日本語の手紙を持ってきたのです。その冒頭が、「滞在中はたいへん豪華なディナーにご招待くださり、ありがとうございました。ご馳走様でした」というような文面でした。

 わたしはパソコンの前で呻吟した挙げ句、Thank you for your hospitality during my visit. というような文章を書いて、ディナー云々はばっさり切り捨てました。Thank you for inviting me to the gorgeous dinnerと書いたら、手紙を受けとった人が首をかしげるとわかっていたからです。

 日本人は食事を提供することを「もてなし」と解釈しますが、欧米人はそういった感覚が薄いようです。会食をあとで振り返るときも、料理の話をするのではなく、「あなたと話ができて楽しかった」「実りの多い会話ができた」という言い方をするのが普通だと思います。

 欧米人のなかには、日本人が豪華な食事を提供してもてなしたがることを「即物的」と解釈して、嫌う人もいます。欧米人の家に招かれたあとで、「このあいだは豪華なディナーをありがとうございました。ご馳走様でした」というようなお礼を言うと、「この人は食べ物のことしか考えていないのか?」と、軽蔑される場合もあるかもしれません。

 外国語を使う際にむずかしいのは、こういうところだと思います。日頃から英語圏の映画やドラマを観たり、小説を読んだりして、文脈のなかで英語表現を身につけたほうがいいとわたしが考えるのは、こういったことも理由の一つです。

「先日はご馳走様でした」という英語表現は存在しませんから、実際に使われている英語表現を素直に学んでいれば、「先日はご馳走様でした」を英語で言うという失敗を犯す心配はありません。

 日本語を英語に翻訳することを英語の勉強だと思っている人は、「先日はご馳走様でした」と英語で言ったり書いたりしてしまいます。その文章が文法的にどんなに正しくても、通じない英語、あるいは誤解を招く英語にしかならないことに気づかずに。

 とは言っても、「先日はご馳走様でした」と挨拶する日本人のメンタリティを恥じる必要はないと思います。お客様に精一杯のご馳走をお出しするという日本人のもてなしは、ひょっとすると、食べ物を手に入れることが困難だった時代の日本人の思いやりから来ているのかもしれません。

 もしそうであるとすれば、お客様にご馳走をお出ししようとすることも、ご馳走に対してお礼を言うことも、誇るべき習慣だと思うのです。

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プロフィール

May

Author:May
翻訳家。フリーランスになって24年。出版翻訳専門。京都府在住。

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